スイングジャーナル 1971年7月号

表紙はカーメン・マクレイ。全日本ジャズ・フェスティバルは1968年から72年まで続いた。もちろん、リアルタイムで経験していない。音源としては、このフェスティバルを企画した原信夫、つまりシャープス&フラッツの演奏しか残っていないようだ。

この号では、岩浪洋三氏がレポートしていて、面白い一文を拾い読みした。「ソロではやはり渡辺貞夫のプレイが群を抜いていた。日野皓正の場合は熱演は買えるが、常にハードにだけ吹きまくると、かえって訴える力が弱くなる。強弱があってこそそこにダイナミックスが生まれるのである」。こんな文章でジャズ評論家として飯が食える時代だったのだ。

スイングジャーナル 1969年11月号

表紙はドン・チェリー。大阪万博でインターナショナル・ジャズ・フェスティバル構想があり、それが頓挫してしまった速報は前号の10月号に取り上げられた。理由は定かではないが、予算の問題だったらしい。それを追求する形でレナード・フェザーからの寄稿が載せられている。今となっては、どうでもいい話ではあるが、ジャズという枠組みの中で傷をなめ合っている感じ。

ジャズより太陽の塔であり、月の石だったということだけである。ところが、国際博覧会史上初めて黒字となった大阪万博という結末。シンコペーションできなかった大阪万博。