スイングジャーナル 1967年8月号

自分にとって面白い特集記事は特になかったが、「世界のジャズニュース」欄にコルトレーンの話題が載っていた。「去る5月の初旬にボルティモアのレフトバンク・ジャズ協会の主催するコンサートに出演し、熱心な聴衆に多大な感銘を与えた」とある。コルトレーンの最後のライブ音源はアルバムThe Olatunji Concertに収録。録音は4月23日なので、その2週間後ぐらいにも舞台に立っていたのである。

この号の発行は8月1日となっているが、原稿の仕上がりは7月中旬頃だったのだろう。7月17日に他界したコルトレーンの速報はどこにも載っていない。翌9月号に特集記事が組まれたと思うが、残念ながら自分の手元にはない。かつて、神田神保町を歩き回って買い漁ったスイングジャーナルの古本。その9月号には出会うことはなかった。

スイングジャーナル 1967年7月号

表紙はジミー・ギャリソン。特集記事は「日本ジャズ界伝説の巨人/天才 ― 守安祥太郎を語る」。いソノてルヲの司会で、宮沢昭、沢田駿吾、渡辺貞夫による座談会形式。守安の略歴が次のように記載されている。

『大正13年(1924年)東京生まれ。昭和21年春、慶応義塾大学の経済学部を卒業するとそのまま大学院に進んだが、これは途中でやめ、電気冷蔵庫のセールスマンなどをした。〈中略〉彼が実力第一人者と認められたのは宮沢昭(ts)、上田剛(b)、平岡昭二(d)と「フォア・サウンズ」を結成したとき。来日していたハンプトン・ホーズが「あらゆる楽器を通じて第1人者は守安祥太郎だ。俺はあの男がおそろしい」と語った。54年4月に沢田駿吾の「ダブル・ビーツ・ファイブ」に参加。〈中略〉55年9月28日夜9時すぎ、国電目黒駅ホームから内廻り電車にとびこんだ。死体は5日間も身元不明だった』。

守安と言えばアルバム「幻のモカンボ・セッション’54」が有名。だが、プレミアムが付いてしまい、簡単に手を出せない値段になってしまった。2枚組6,980円、3枚組18,000円である。手頃な価格の中古CDは出回っていない。適正価格での再発をずっと期待しているのだが…。

スイングジャーナル 1967年3月号

表紙はチコ・ハミルトン。コルトレーンのアルバムLive At The Village Vanguard Again!が、この号のレコード評トップに位置付けられた。油井正一氏がレビュアー。満点を付けて、以下のように切り出している。自分自身がこのアルバムをきっかけにコルトレーンにのめり込んだので、興味深く読んだ。

『ナット・ヘントフがコルトレーンにきいたそうだ。「6年間も〈マイ・フェヴァリット・シングス〉をやりつづけていてシンドイとは思わないかね?」コルトレーンは即座に「ノー」とこたえた。いったんソロ・パートに入るとそこは無限の可能性を秘めた創造の世界だからだそうだ』。

上記の会話をもとに、『初演盤は常にベストであることを大いに反省し、再演という言葉は不適当。再演ではなく完成なのだ。デッサンが完成した画になったのだ』とつなげている。リアルタイムで聴くことができなかった自分としては、油井氏の評価の仕方が参考になる。