スイングジャーナル 1969年4月号

エリントン生誕70年記念特集。この5年後の1974年5月24日に他界。「私の音楽に対する勉強は、GフラットとFシャープの違いを学んだことからはじまった」は有名。とても良く分かるのだが、学ぶというか体感することだと思う。

ビーフラでいくかと、エーシャープでやってみるでは、心構えが違う。ウッドベースの場合、ビーフラで使うポジションは指で覚えている。エーシャープだと脳回路を再結線しなければならない。体で演奏するか、頭で演奏するかの違い。

スイングジャーナル 1969年3月号

ジャーナルの表紙は的を射てないことが多い。この号でアリス・コルトレーンである必然性が全くないのだ。特別企画「パーカー没後15年の軌跡」に合わせるか、ポール・チェンバースになぜしなかったのか。

チェンバースは、肺結核の悪化と香港カゼの併発で、1969年1月4日に他界。享年33。本田俊夫氏が追悼文を書いている。しかしながら、チェンバースの表面的な部分だけで、一つのエピソードも書いていない。執筆を依頼した児山編集長のミスジャッジだった。エリック・ドルフィーの記事もあって面白い号であるが、表紙と追悼文にミスがあり評価は「☆☆☆・・」といったところ。

スイングジャーナル 1969年2月号

2回目のディスク大賞の金賞がオーネット・コールマンのクロイドン・コンサート。1回目の金賞が、コールマンのAt The Golden Circle Stockholm Vol.1だった。だが、ストックホルムは1965年12月、クロイドンが65年8月の録音である。つまり、ディスク大賞は国内販売日を基準にしたために、2回目で早くも矛盾を表してしまった。

そして、興味深い記事はマイルスの来日公演中止。69年1月6日の渋谷公会堂が初日だった。だが、その日の午後に、プロモーターからの中止発表。来日メンバーのウェイン・ショーター、チック・コリア、ロン・カーター、ジャック・ディジョネットは入国許可が下りたが、マイルスだけが却下されたのである。当時の法務省入国管理局入国審査課は、詳細な情報を収集していたことになる。