スイングジャーナル 1967年7月号

表紙はジミー・ギャリソン。特集記事は「日本ジャズ界伝説の巨人/天才 ― 守安祥太郎を語る」。いソノてルヲの司会で、宮沢昭、沢田駿吾、渡辺貞夫による座談会形式。守安の略歴が次のように記載されている。

『大正13年(1924年)東京生まれ。昭和21年春、慶応義塾大学の経済学部を卒業するとそのまま大学院に進んだが、これは途中でやめ、電気冷蔵庫のセールスマンなどをした。〈中略〉彼が実力第一人者と認められたのは宮沢昭(ts)、上田剛(b)、平岡昭二(d)と「フォア・サウンズ」を結成したとき。来日していたハンプトン・ホーズが「あらゆる楽器を通じて第1人者は守安祥太郎だ。俺はあの男がおそろしい」と語った。54年4月に沢田駿吾の「ダブル・ビーツ・ファイブ」に参加。〈中略〉55年9月28日夜9時すぎ、国電目黒駅ホームから内廻り電車にとびこんだ。死体は5日間も身元不明だった』。

守安と言えばアルバム「幻のモカンボ・セッション’54」が有名。だが、プレミアムが付いてしまい、簡単に手を出せない値段になってしまった。2枚組6,980円、3枚組18,000円である。手頃な価格の中古CDは出回っていない。適正価格での再発をずっと期待しているのだが…。

スイングジャーナル 1967年3月号

表紙はチコ・ハミルトン。コルトレーンのアルバムLive At The Village Vanguard Again!が、この号のレコード評トップに位置付けられた。油井正一氏がレビュアー。満点を付けて、以下のように切り出している。自分自身がこのアルバムをきっかけにコルトレーンにのめり込んだので、興味深く読んだ。

『ナット・ヘントフがコルトレーンにきいたそうだ。「6年間も〈マイ・フェヴァリット・シングス〉をやりつづけていてシンドイとは思わないかね?」コルトレーンは即座に「ノー」とこたえた。いったんソロ・パートに入るとそこは無限の可能性を秘めた創造の世界だからだそうだ』。

上記の会話をもとに、『初演盤は常にベストであることを大いに反省し、再演という言葉は不適当。再演ではなく完成なのだ。デッサンが完成した画になったのだ』とつなげている。リアルタイムで聴くことができなかった自分としては、油井氏の評価の仕方が参考になる。

スイングジャーナル 1967年2月号

表紙はカーメン・マクレイ。注目したのは公演中止の記事。アート・ブレイキーとジャズ・メッセンジャーズにソニー・ロリンズが加わった公演が、1月2日から国内各地で計26回予定されていた。ところが、その数日前の12月28日に突然中止になったのである。法務省入国管理局の許可が下りなかったのが理由。しかし、何故下りないかの理由は公表されなかった。

スイングジャーナル1967年1月号は所有していない。恐らく本公演の特集記事が組まれたに違いない。ブレイキーとロリンズのディスコグラフィーを見ると、二人とも67年は空白になっている。理由不明の日本入国禁止でやる気をなくした一年だったのか。